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53.「古代メキシコ展」

行きたい国は数あれど、行きたくない国もある。自分にとってそれはメキシコだ。メキシコ在住の方には申し訳ないが、日頃から発砲音が鳴り響いている印象が強く、簡単に死んでしまいそうだからだ。ドラマや映画、テレビなどから得た印象でしかないが、そもそも作られすぎていることが十分に危ない国であると物語っている。

そんなことを日々考えていると目に入ってきた文字がある

「古代メキシコ展」

国立博物館で始まった展示だ。

展示会が始まって3日目に行った。

メキシコへの想いが募りまくっていることを我ながら感じる。とはいえ今回の展示はカルテル同士が銃でドンパチしている現代のメキシコではなく古代だが、むしろ最近は古代メキシコにも興味が湧いている。それは『テスカトリポカ』(著:佐藤究)を読んでからだった。

物語は現代のメキシコでのカルテル同士の争いから始まる。敵対するカルテルに壊滅的にやられた主人公は一人逃走し、日本へとたどり着く。そこで出会った一人の外科医と共に新たな商売を始めるが……。

といった話を主軸に、それと並行して主人公が幼少期に祖母から伝え聞いた古代メキシコの伝統が語られていく。

小説の感想は面白かったというものだけに留めて詳細は省くが、結局現代も古代もメキシコは人の命が大変軽いなという印象を強く持った。特に印象的なのは古代メキシコでの生贄の捧げ方だ。まず当然生贄文化は存在する。それは祭事のためであり、その犠牲となる人は大層豪華な暮らしを与えられる。ひとつも不自由ない環境で1年間暮らしたのち、祭り当日に心臓を抜き取られる。

色々とよくわからない。

小説を読んだのはもう1、2年前なので細かいところは忘れたが、まず生贄が必要な点がよくわかってない。そしてその生贄になる人に豪華な暮らしを提供する点が非常にずるいよなと思う。死んでしまうのは決まり事項だからせめて豪華な暮らしを与えてやるよといった悪い大人たちの考え方が気に食わない。とはいえ生贄となる人は神と同一視されていたというのもあり、神を殺そうとすることになる点はどうなんだと思う。そんな気持ちを解消してくれるか知らないが「古代メキシコ展」でこの小説の舞台となった時代が見れるだろうと思い、行ってみた。

答えは一番最初に出てきた。

 

神はたくさんの犠牲を払ってきている。

よって我々人類も犠牲を払う必要がある。

だから生贄を捧げる。

 

のような説明がされていた。(かなり意訳)

展示会は全て自由に写真に撮っていいとあったので撮っておくべきだった。

いきなり求めていた答えが出てきたことに驚き、写真に収めるのを忘れていた。

とはいえ生贄文化の考え方を知ることは出来た。まずこの神とは何か。

ちなみにテスカトリポカも神である。煙を吐く壺を意味する万物の神。よくわからない。今回の展示会にも飾られていた。こっちは写真に収めた。

展示会で多くの神がいることを知った。その神々が犠牲を払ったことで我々人類は生きられている。そのため人類も犠牲を払う必要がある。

それでは各個人が少しずつ犠牲を払えばよいのでは?

なぜ一人が犠牲になるのか。

そんなときにTBSの「クレイジージャーニー」を見た。

この番組でも時たまメキシコのカルテル事情を扱っているがその時はアリを扱っていた。ミツツボアリを追っていた。

ミツツボアリとはお腹に蜜を蓄えるアリである。とはいえ全てのアリが蓄えるのではなく担当が決まっており、またその担当は生まれながらにして決まっているらしい。蜜を溜める担当となったアリは一生動かないまま仲間のためにひたすら蜜を溜めるだけ。乾燥地帯に暮らしており、他に食料もないからこの方法を選んだとされる。溜まった蜜をどうやってみんなが食すのか、その際に溜めていたアリはどうなるのかまでは解説されなかったがなんだか古代メキシコと一緒だなと思った。そこに各個人の意思はなく、種族全体で役割分担がされているという点で。

自ら蜜を担当したいという志願ではなく、生まれながらにして決まる。

古代メキシコにおいても自ら生贄になるという志願ではなく周囲から決められる。

ある意味生物的に正しい行動だったのかもしれない。

しかしだ、しばしば古代メキシコで語られるのはとてつもなく学問が発達している点である。天体観測によって季節の変遷を予測し、農作物を適切に育てることができる。こんなことが出来るなら各個人の心の機微も読み取れないのか。死にたくないなという気持ち。動物や植物がお互いにコミュニケーションを取り合っているのかどうかは分からないけど、少なくとも人間は出来る。一人が死ぬことで問題なしとなる文化はおかしいだろと提言できるのではと思う。古代メキシコでどの程度コミュニケーションが発達していたのかは分からないけど、ある程度会話出来ないと天文学の発達もなかったのではとも思う。

だが、ここで思うのは、人の気持ちは観測出来ないということだ。

ただでさえ自分の気持ちや考えを正確に伝えるのは難しい。だから現代日本においても認識齟齬という言葉が横行している。なのでこんなことを思った。

 

観測できる事象には学問が育ち、観測できない事象には神が宿る。

 

天体も日夜観測していると規則性が分かって共通点が見えてくる。そこから仮説を立てられ検証し、より理解を深められる。そうして一つの学問が育っていく。

一方、そもそも人間とは何か、何者が生み出したのか。また命を脅かしてくる自然災害や生物、ときには別の人間たち。なぜ命を奪いに来るのか分からない。そういった観測できない事象に人々は恐れをなす。その恐怖を生み出さないために神が現れ、儀式が生まれる。儀式は伝統となり、伝統とは形を変えて引き継がれていく。そうして出来上がった儀式は、大変複雑な工程を踏まえて神に捧げる祭事となる。一つ一つの行動に何の意味があるのか。しかしながらその行動で心安らぐこともある。なので引き続き行われていく。ここまでくると現代も同じようなことをしていると感じる。必死に勉強した挙句、最後に神社に行って神頼みするみたいな。犠牲じゃないけどお金を献上して願うという意味で。

違う話になったので最後に印象に残った展示を述べる。

古代メキシコ展では一番最初にドクロが迎えてくれる。

リアル人骨にビビるも、その目の部分に白い石?のようなものが埋め込まれ、さらにその石の中央に茶色い木の実がくっついている。目の窪みの上部は八の字になっており、なんだか困り顔のように見えて段々と愛着が湧いてくる。その次は刃物が展示され、ドクロと同様に目のような飾りがあり、更にギザギザの歯も着いている。2連続で展示物の虜になる。ほかにもベロを出したドクロだったり、今でも売れそうなプラスチック製の猿の容器となんだか可愛いなと思う展示ばかりだった。

あとなんか大人サイズのプロレスラーみたいな鳥人間の像もあった。